最高裁判所第一小法廷 平成3年(あ)22号 決定 1991年9月19日
本籍
大阪府松原市天美南四丁目三二五番地
住居
同所一〇番二一号
会社役員
芝野修
昭和二年三月一五日生
右の者に対する法人税法違反被告事件について、平成二年一一月一四日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人中西清一、同小林俊康の上告趣意は、違憲をいうが、実質は量刑不当の主張であり、弁護人西村眞人、同新井清志、同山上朗、同小澤治夫の上告趣意は、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 味村治 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巖 裁判官 大堀誠一 裁判官 橋元四郎平)
平成三年(あ)第二二号
○ 上告趣意書
被告人 芝野修
右の者に対する法人税法違反被告事件についての上告趣意は左記のとおりである。
平成三年二月二六日
弁護人 中西清一
同 小林俊康
最高裁判所第一小法廷 御中
記
原判決は憲法一四条に反しており、破棄を免れない。
一、有罪判決の刑の量定については、個々の事案に固有の情状を考慮したうえでなされるのが当然とはいえ、他の同種事犯との間の均衡も重要な判断要素である。
たとえば、覚せい剤取締法における自己使用のケースであれば、前科なく初犯なら執行猶予が付くのが通常であり、再犯なら前回犯行との時間的間隔にもよるが、非常に実刑の可能性が高くなる。また、交通事故(業務上過失傷害)であれば、無免許や飲酒運転などの故意犯的要素を除き、被害者の数や加療期間及び示談成立の有無等により略式起訴か公判請求か、あるいは執行猶予か実刑判決かなどの予測が可能である。これらは、弁護人自身が経験により身に付けて同種事犯の弁護において指針としているところであるが、検察官も内部的に起訴基準や求刑基準を策定し、同種事犯における処分の均衡を重視していることは公知の事実である。これは、有罪の宣告を受ける犯罪者といえども、憲法一四条の法の下の平等原則の保護下にあることの表れである。従って、裁判所が有罪判決の刑を量定をするにあたって、同種事犯との刑の均衡を著しく失することは許されず、このような刑の量定がなされれば、憲法一四条に違反するというべきである。
二、本件のような法人税法違反を初めとするいわゆる脱税事犯においては、刑の量定について、ほ脱額及びほ脱率が決定的ともいえる重大要素であることはいうまでもない。本件において、第一審判決、原審判決いずれもこの点を真先に量刑の事情で論じているのもうなづける。しかしながら、そうであれば、数量そのものとして他の同種事犯と比較の容易な脱税事犯においては、この点において刑の均衡を失うことがあってはならないというべきである。この他の脱税手段やほ脱した所得の使途等の二次的情状に違いがあっても、せいぜい猶予判決における刑期や猶予期間の長短程度に反映させるべきであって、実刑判決か猶予判決かというようないわば生死を分ける決定的要素となすべきではない。
三、脱税において、本件よりもほ脱税額が比べものにならぬほど多額であり、社会的にも耳目を集めた大型事件がある。
1、草月流家元事件(昭和五一年一二年一五日東京高裁判決、判例タイムズ三四九号二六三頁)
ほ脱税額 三億四、〇〇〇万円
量刑 罰金一億円
2、ネズミ講事件(昭和五三年一一月八日熊本地裁判決、判例時報九一四号二三頁)
ほ脱税額 約二〇億円
量刑 懲役三年、執行猶予三年
罰金七億円
3、殖産住宅事件(昭和五五年七月四日東京高裁判決)
ほ脱税額 約二九億円
量刑 懲役二年六月、執行猶予三年
罰金四億円
これらの判決は、いずれも原判決より一〇年以上前のものであり、この間に脱税事犯に対する社会的非難にいささかの昂揚があったことは否めない。しかし、本件のほ脱税額は約四億一、〇〇〇万円であり、これを七、〇〇〇万円程度下回る前記1の判決では罰金刑が選択され、約五倍にあたる前記2の判決及び七倍以上にあたる前記3の判決においては、いずれも懲役刑が選択されたとはいえ執行猶予が付されているのである。このような一目瞭然の刑の不均衡は、憲法一四条に反するものとして許されるものではない。
四、原判決は量刑の理由において、右の他手段・方法、動機等を被告人の不利な情状として掲げてはいるが、「かなり…である」とか「殊更斟酌…し得ない」とか「…否定できない」とか、歯切れの悪い表現となっている。これに対し、被告人に有利な諸情状については、弁護人が主張するところを正しく理解し判決中に指摘している。してみると、原判決において被告人を実刑判決に処した理由は、そのほ脱税額及びほ脱率が唯一決定的であってこれ以外にはあり得なかったのである。従って、前項で指摘した三判決と本件とに存する固有の特殊な事情は、これを比較対照するときに考慮する必要がないといえよう。最高裁判所におかれましては、前記三判決を本件とは事情を異にするものとして一蹴されることなく、数量的にみて一見明らかに前記三判決と刑の不均衡を招来する原判決を憲法一四条違反として破棄されますようお願い申し上げます。
(以上)
平成三年(あ)第二二号
被告人 芝野修
右の者に対する御庁頭書法人税法違反被告上告事件について、後記のとおり上告趣旨を開陳する。
平成三年二月二八日
右被告人弁護人弁護士 西村真人
同 新井清志
同 山上朗
同 小澤治夫
最高裁判所第一小法廷 御中
後記
○ 上告趣意書
原審裁判所(控訴審・以下、原審という)は、被告人の控訴を棄却して、第一審裁判所(以下、一審という)が、被告人を懲役一年六月に処する旨の判決を肯認・支持し、被告人に対し、右刑の執行を猶予する判決をなすべきであるとする控訴趣意を排斥した。しかし、原審判決(以下、原判決という)は、以下に述べるとおりの理由により刑の量定が甚だしく不当であるから、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるので、原判決は破棄さるべきである。
第一点、(一)、(1)、一審に於いては、同一の犯罪事実(一審判示各事実)に対して、これを法人税法違反被告事件とし、被告人大伍貿易株式会社(以下、被告会社という)と、本件被告人を相被告人とし、被告会社に対し法人税法第一六四条一項により、同法第一五九条二項を適用して罰金一億円に処し、同法第一五九条一項を適用して、懲役一年六月に処した。
(2)、そして、被告会社も被告人も同時に各控訴の申立を為し、何れも同一の控訴審たる原審に係属したが、その後、被告会社のみ、控訴を取下げたので、原審は被告人についてのみ、控訴棄却の判決を宣告した。
(3)、従って、被告人の控訴趣意は、一審判決の量刑の不当を争うものであったけれども、原審が被告人の控訴棄却した事は、一審判決の犯罪事実・法令の適用・量刑等について全て適正妥当なものであると認定した上で、控訴棄却の判決をしたものである事は言うまでもない。
(二)、(1)、ところで、被告人が法人たる被告会社の機関たる代表取締役(以下、代表者という)として、被告会社の業務に関して為した行為は法人たる被告会社自体の行為であり、被告人個人の行為の意義を失うものであるから、被告人が法人たる被告会社の機関たる代表者として、被告会社の業務に関して為した本件判示各所為は法人たる被告会社の所為として、法人たる被告会社を処罰する事はともかくとして、この被告会社が処罰されると共に、それと同一の本件判示各事実につき、これを二重に被告人個人の行為として評価し被告人個人をも処罰する事は、著しく合理的理由を欠く不適正なものであると言わなければならないのである。
(2)、即ち、法人税法も法人自体に対し法人税を課する事のみならず、法人自体の犯罪能力を認め、法人自体を処罰する事を認めており、又、法人機関たる代表者と法人の代理人、使用人、その他の従業者らとを区別して規定しており、法人実在説に立脚した立法であると解される。
なお、法人の従業者が、法人の業務に関して違反行為をした場合、従業者と共に法人の過失犯を認めて法人をも処罰するにとどめ、法人の代表者個人の過失犯を処罰する事は認められていないのである。
(3)、然るに、法人税法第一六四条一項は「法人の代表者が、法人の業務に関し、同法第一五九条一項(法人税を免れる等の罪)の違反行為をした時は、その行為者を罰する外、その法人に対して、当該各条の罰金を科する」旨を規定している。そして、その行為者を処罰する法条として、同法第一五九条一項・二項等を設けている。通常は同法第一六九条一項を形式的意味に於て両罰規定と称しているが、その内容・実質は同法第一五九条一項・二項を包含し、同法第一六四条一項は同法第一五九条一項・二項と相俟って働く規定である事は法条の文言上からも明らかであり、同法第一五九条一項・二項も実質的意味に於て両罰規定の概念の中に包含されるものである。
(4)、而して、既述のとおり一審判決は同一の各判示事実につき、被告会社に対し同法第一六四条一項及び同法第一五九条二項を適用して、罰金一億円に処し、同じく被告人に対し同法第一五九条一項を適用して、懲役一年六月に処したのであるが、これは、被告人が被告会社の機関たる代表取締役として為した行為(本件判示各事実)につき、これを被告会社の行為として被告会社を処罰すると同時に、更にこれを被告人個人の行為であると評価して被告人個人をも処罰したものであって、いわゆる二重処罰を為したものであり、原審もこれを肯認・支持して、控訴棄却の判決を宣告したのである。
(5)、然るところ、憲法第三九条後段は「又、同一犯罪について重ねて刑事上の責任を問われない」旨を規定し、二重処罰を禁止しているから、前記のとおり実質的意味を含む両罰規定(法人税法第一六四条一項・一五九条一項・二項)は違憲であるとする趣旨の有力な見解があり(滝川・犯罪論序説二六頁は「法人と機関(機関に就任した個人の意味と解される)とを二重に処罰する事は刑法の原則に反する」とする。なお、草野・刑事法学の諸問題(1)五一頁以下「法人の処罰に関する一考察」、植松・刑法学総論一〇五頁、同・増訂刑法概論Ⅰ総論一二五頁等その他)、違憲の疑念がある。又、憲法第三九条後段に該当しないとしても、憲法第一一条乃至第一四条、同二五条、同第九七条等の憲法の精神に反するのではないかとの疑念がある(公共の福祉についての詳論は上告趣意書の性質上、これに言及しないが、ただ、公共の概念の中には被告人らも含まれている事のみ付言する。又、代表取締役は一種の社会的身分である)。何れにせよ、違憲の疑念があるものである。
(6)、然るに、一審判決が本件事案につき前述の如き違憲の疑念のある法令を厳格に解釈・適用し、被告会社に対し罰金一億円に処し、被告人に対し懲役一年六月に処したのは、二重処罰を為したものとして違憲の疑念がある判決である。又、原判決は一審判決を肯認・支持した上で被告人の控訴を棄却したのであるから、原判決も亦、違憲の疑念がある判決であると言わなければならないのである。
蓋し、若し憲法の二重処罰の禁止に違反すると断定されるならば、二重に処罰する事自体が違憲無効となるのであるから、被告会社に対する処罰と被告人に対する処罰が何れも違憲無効となるのであり、何れか一方が有効で何れか一方が無効となるものと解すべきものではない。
仮にそうでないとしても、原審が被告人に対する控訴棄却の判決を宣告する以前に、既に被告会社の控訴取下げにより、被告会社に対する一審判決が確定し、且つ、被告会社は本税・延滞税・重加算税等を完納したほか、罰金一億円を完納していたのであるから、被告会社に対する一審判決を有罪とするならば、原審は被告人に対する一審判決を破棄すべきであるからである。
然るに、原審が右の点について深い考慮をせず、控訴棄却の判決を宣告したのであるから、原判決は違憲判決ではないかとの疑念があると言わなければならないのである。
(7)、なお、以上の点について附言するに、法人税法は規定の配列上、先に第一五九条に於て、法人の代表者の違反行為につき代表者個人を処罰する旨を規定し、その後で第一六四条を設けて、法人の代表者個人を処罰するほか法人を処罰する旨を規定しているが、これは法人擬制説に立脚し、法人自体に犯罪能力を認めない旧来の立法の伝統的立法形式を無批判的に踏襲したためであり、これらの規定が違憲でないとしても、法人税法は法人税を法人が負担すべきものとしており、又、法人に犯罪能力を認めているのであるから、本来的乃至は論理的には先に法人自体の処罰規定を設けるべきである。更に、仮に現行法第一六四条のような規定の仕方が為されていたとしても、それは法人自体の処罰が根本的、又は第一次的のものであるとの趣旨として、解釈しなければならないのである。
(8)、なお、疑わしき「罰せず」とか、「被告人の利益に従う」という原則は当然、本件に於ても適用されなければならないのであり、特に刑罰を科す場合は、いわゆる謙抑主義の原則に従わねばならないのである。
従って、一審判決及びこれを肯認した原判決は、前記のとおり違憲の疑い乃至刑事法の原則に反する疑いのある立法の解釈適用については、極めて慎重に考慮し、且つ、寛大な処分を為すべきである。
(9)、よって、既述のような事情の下に於て、一審及び原判決が被告人に対し、懲役一年六月に処した事はともかくとして、これについて執行猶予の判決を宣告しなったのは、刑の量定が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
第二点、(一)、(1)、原審に於る被告人弁護人らの控訴趣意書には、被告会社が本件法人税法違反につき各修正申告を為し、本税、重加算税、延滞税等を完納している旨を主張し、原判決もこれを認めているが、一審及び原審各判決は、何れも重加算税、延滞税等を単に「附帯税」として、重加算税及びその他の加算税と延滞税・利子等とを同質的に判断している。
(2)、しかし、現行(本件昭和五九年度乃至同六一年度を含む)国税通則法(昭和三七年四月二日法律第六六号)は、第六章を「附帯税」と題し、その第一節を「延滞税及び利子税」と題し、第六〇条乃至第六三条は延滞税に対する規定を、第六四条は利子税に関する規定を設け、第二節を「加算税」と題し、第六五条は利子税に関する規定を設け、第二節を「加算税」と題し、第六五条(過少申告加算税)、第六六条(無申告加算税)、第六七条(不納付加算税)、第六八条(重加算税)、第六九条(加算税の税目)を設けている。従って、同法はこれを形式的に見ると、第二節に規定されている各加算税(重加算税を含む)を本税との関係に於て広義の附帯税の概念の中に包含せしめているが、本来的な附帯税は第一節の延滞税及び利子税であって、第二節の加算税は税の形式・名目を採っているが、実質的には行政上の制裁であり行政罰的な性質のものである。
(3)、加算税の中、特に重加算税は、同法第六八条が重加算税の課税要件として「課税標準等又は税額等の計算の基礎となるべき事実の全部又は一部を隠蔽し、又は仮装し」と規定し、本件当時に於る本件の如き過少申告加算税に代わる重加算税額は、本税の三〇%で(過少申告加算税との併課はしない)、その額は極めて高額である(延滞税額は未納税額につき年一四・六%=同法第六〇条二項)。他方、法人税法第一五九条は逋脱犯の構成要件として「偽りその他不正行為により税を免れ」と規定しており、重加算税の課税要件と逋脱犯の成立要件とが法条の文言上、僅少の差があっても、その意味内容は重なり合っているのであり、重加算税が課せられる場合には、理論的には逋脱犯として刑罰が科せられるべき場合である。故に重加算税の実質は刑罰たる罰金と実質的に同性格のものであり、ただ、法の形式が重加算税が行政手続で制裁として税の形式で課せられるのに対し、刑罰たる罰金が刑事手続を経て科せられると言う形式的な差異があるに過ぎないのである。
(4)、右のとおり、重加算税が実質的には刑事罰たる罰金と同性格のものであると解することが正当である事は、重加算税制度を設けた立法の沿革に照らしても明らかである。即ち、昭和二五年三月三一日、法律第七三号による改正前の法人税法は、第四二条による加算税のほか、第四三条による追徴税を課した(逋脱金額の二五%)のであるが、この追徴税がいわゆるシャウプ勧告により重加算税制度として、整備されたものである。即ち、重加算税制度は「現在詐欺事件に適用される唯一の罰則は、その適用に起訴を必要とする刑事罰である。詐欺行為は、処罰する事なく黙過する事は出来ない。そこで、あらゆる事件に刑事訴追を為す必要から免れるため民事詐欺罰(行政罰)を勧告する」というシャウプ勧告に基づくものであるから、重加算税は実質的には刑事罰としての罰金的な性質を有するのであると言うべきである。
(5)、なお、重加算税についての有権的な解釈として「重加算税は詐欺があった場合にその全部について刑事訴追をする事が困難であり、又、刑事訴追を為す事が必ずしも適当でない事から、課せられるものである」旨の見解がある(山下元利外三名編・国税通則法精解五九三頁参照)。そうだとすれば、本来、重加算税を課した場合は、刑罰としての罰金や懲役刑を科すべきものではないのである。
(6)、更に、重加算税は現行法(昭和五九年度乃至昭和六一年度を含む)の下に於ては本税額の三〇%に軽減されているが、その額は延滞税率等に比して、なお、二倍以上の高額、且つ、定額であり、減額されたとしてもその性質が罰金的なものである事に変わりはないのである。
(二)、(1)、そこで、現行法人税法に規定されている不適正な行政手続により、実質的に刑事罰たる罰金的な性格を有する重加算税を課する事(行政処分)自体、憲法第三一条・又は同三二条等に違反するとし、又は違反するのではないかとの疑念を有する見解がある共に、更に重加算税と共に刑事手続による刑罰たる罰金を併科する事は、憲法第三九条後段乃至は、憲法第三一条に反するのではないかとする有力な見解があり、従って、重加算税を課する場合は適正な改正規定を新設し、更に重加算税を課する場合には刑事罰たる罰金や懲役刑等を科さない旨の法改正が要望されているのである(北野・追徴税と罰金の併科「行政判例百選Ⅰ第二版二三〇頁等、その他参照)。
(2)、然るに既述のとおり、一審判決は被告会社に対し、脱税した本税分は勿論、延滞税のみならず重加算税を課しているのに拘らず、刑罰たる罰金一億円を科しており、又は、同時に被告人に対し懲役一年六月に科した事はともかくとして、これについて執行猶予の判決を宣告しなかった。又、原判決は、被告会社が脱税した本税、延滞税、重加算税、罰金等、全て完納されており(本件に関しては昭和六〇年度分につき金七万円の過少申告加算税が課せられた外に重加算税が課せられ、被告会社が、これらを完納している。この点、情状の上に於て考慮されなければならないものと思料する。)、右各完納に関して、被告人が以前から所有していた土地・家屋を処分し無一物となって、右各完納に寄与した事を認めているのに拘らず、一審判決を肯認・支持し、被告人に対する執行猶予を認めなかった。このような一審判決及び、これを肯認・支持した原判決は、何れも憲法第三九条後段、若しくは同三一条・三二条に違反しているのではないかとの疑念が濃厚である。
(3)、而して、疑わしきは「罰せず」とか、「被告人の利益に従う」という原則は本件に於ても適用されねばならないのであり、特に刑罰を科す場合はいわゆる謙抑主義の原則に従わねばならないのである。
従って、一審判決及びこれを肯認した原判決は前記のとおり違憲・違法の疑念のある立法の解釈適用については、極めて慎重に考慮し、且つ、寛大な処分を為すべきである。
(4)、よって、以上のような事情の下に於て、被告人に対し、執行猶予を認めなかった原判決は量刑が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
第三点、(一)、(1)、原判決はその「理由」に於て、被告人弁護人作成の控訴趣意書、検察官作成の答弁書の各記載を、各記載のとおり引用し、控訴趣意書の記載の所論に鑑み、原審に於て記録を調査し、原審に於て事実を取り調べた結果をも併せて検討して本件犯行の罪質、動機、態様及び、逋脱の結果等、即ち、一審判決が「被告人に対する量刑の事情の項で指摘するように云々」、と述べ大略、一審判決と同旨の判断をしているが、
(2)、犯行の罪質について、「昭和五九年度から昭和六一年度までの三事業年度の脱税合計額が四億一、〇七四万円余であり、三事業年度に於る平均逋脱率も八九・七六%という高率に達する相当大規模な逋脱事犯である」旨判示しており、これが被告人を懲役一年六月に処し、且つ、これにつき執行猶予を認めるべきではないと認定された大きな理由のように思料されるが、本件犯行が相当大規模の逋脱事犯(被告人をも懲役に処し、これについて執行猶予を認めない程の)に該当すると認められるに至った客観的基準等については何ら判示されていないので不明である(この点に関する検察官の意見は納得できない)が、昭和五九年度乃至昭和六一年度を含む現在の社会通念(新聞・雑誌・テレビ・等の報道等によるものを含む)としては大いに疑問があるところ、控訴趣意書は第三者に対する本件と類似の最近の三事件につき、具体的に例示する等して本件は相当の大規模な脱税事件ではなく、本件被告人に対しても執行猶予の判決が為されるべき旨を主張しているのであるが、原判決はこの点について何ら考慮していない。
なお、この犯行の罪質についても、前記第一点及び第二点の各趣意を考慮されたい。
更に、租税犯処罰の本質は飽くまでも国民(法人を含む)が義務として課せられた納税義務不履行により、国家財政上の収入を減少せしめ、国家(国庫)に損害を与えるのを防止する事を保護法益として為される点にあるのであり、納税の手段・方法につき申告納税制が採用されたとしても、又、租税が公共の福祉のために使用される(それは、一旦国庫に収入された上で使用される)としても、これらにより租税犯の罪質自体が根本的に変更されるものではないのである。納税申告制の採用等を以て、租税犯が行政犯から刑事犯に移行したとするような見解は、法人を処罰するほか、その代表者個人をも重罰(自由刑)に処せんとするための便宜的見解ではないかとの疑念があり(法人の処罰については罰金等の処罰の他、適当な処罰の種類・方法が考えられており、これらを速やかに立法化すべきである)、個人尊重の憲法・刑法等の精神・原則に反するのではないかとの疑念がある。
(3)、犯行の態様について、原判決は「被告人主導による会社ぐるみの犯行である」旨を判示している。この点に関し、控訴趣意書には起訴はされなかったが、本件犯行については被告人の実弟芝野進の所為に係るものがあると主張しており、原判決もこれを否定していないが、しかし、これは被告人が全て一身に罪を背負ったものであり、この点は被告人に対する刑の量定上、大いに考慮し被告人に対し寛大な処分を為すべきものであると思料するものである。この点も原判決は刑の量定が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
(4)、犯行の動機について、原判決は「不況期に備えて好況期に会社資産を蓄積することを企図したもので…中略…殊更斟酌するべき事情とはなし得ない」と判示しているが、右記のような企図でなく他の目的(例えば遊興費等に消費する目的等)で脱税が行われる事が多い中で、本件のような企図で為された場合は、被告人に対し執行猶予を宣告するや否につき、大いに斟酌すべき事情であると考慮さるべきである。殊に、超一流の大企業にあってはその倒産を防止するために、国家(行政)や金融機関・財界等が救済措置を講じて倒産防止・再建策を講じてくれるが、被告会社の如き、いわゆる中小企業に於ては自救措置を講ずる以外に何ら救済措置を講じてくれる者がないのである。この点は犯行の情状・量刑の上で特に斟酌すべきものである。そうでなければ、著しく社会的正義に反すると思料するものである。
なお、原判決は「動機に私欲的な要素があった事は否定できない」と判示しているが、この種の犯罪に於て、動機に私欲が皆無である事こそ皆無である。多少の私欲利欲があっても、その殆どは被告会社の不況期に備えてと言う事が、本件犯行の動機である。
又、原判決は「捕脱所得の大半が仮名預金、有価証券、ゴルフ会員券等として被告会社の簿外資産として蓄積運用されていたのであるが、所詮は一私企業の利益を公の納税義務に優先させる考え方に基づいており、殊更斟酌すべき事情とはなし得ない」と判示しているが、この点について疑問がある。そもそも、日本国憲法は国民が主権者であるとしており、又、「公」若しくは「公共」の概念の中には被告人及び、法人たる被告会社等も含まれているのであるから、右原判決の判示には納得し難いものがあり、日本国憲法の個人尊重の精神に反するのではないかとの疑念がある。
憲法第一二条・一三条・二九条に、いわゆる「公共」とは、個人(法人を含む)を除外した概念ではない。個人乃至は法人をも包含する概念であって、個人又は法人の権益を無視した若しくは犠牲にした公共の利益、又は公共の福祉は考えられない。右記憲法にいわゆる公共の福祉は、個人の権利の濫用を抑制し、個人の権益と公共の福祉との調和を企図する意義のものであり、日本国の憲法の下に於て、公共の福祉が個人(法人を含む)の権益に優先すると解すべきではない。
更に重大な事は、原判決は「なお、原判決(一審判決を指称する)は、ゴルフ会員権の購入及び実弟への裏金分配を個人的用途の例として指摘しているが、右は何れも会社の簿外資産蓄積の用途に供されたと認められるから右指摘は相当でない」と判示していながら、一審判決を支持し、被告人に対する、執行猶予を認めなかったのは不可解である。
蓋し右のとおり、原判決が一審判決の指摘が相当でないとして事実は、これを金額的に見ると多額であり、脱税額合計金約四億円の約半分位の額である事は一件記録徴して明白であるから、被告人の情状・量刑の上に著しく影響があるものと思料されるからである。
然るに原判決が、一審判決をそのまま支持して、被告人に対して執行猶予を認めなかったのは、刑の量定が甚だしく不当で、これを破棄しなければ著しく正義に反するものであると認められるのである。
(5)、捕脱の結果等について、原判決は、控訴趣意書による被告人の弁護人の主張につき種々判示しているが、被告人の個人所有の土地建物等を処分した事によって被告会社の納税や罰金が完納された事及び、そのために被告人が無一物になった事(この点は既に第二点に於て述べているが、以下の事項と合わせてという趣旨として理解されたい)、海外との合併事業に障害が生じ国際的親善・信用に支障が生ずる事等は情状・量刑上、特に重視されなければなないが、これらについて原判決はその事実を認めながら、それ相当の評価をせず、一審判決を指示しているのである。
よって、これらの点に於ても、原判決は刑の量定が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものであると認められるのである。
(二)、その他、原判決は控訴趣意書の記載をそのまま引用して、これについて判断を加えたとしているが、原判決がその理由中に摘示し、これについて判断した中には控訴趣意書に記載された重要な事由が摘示されていないし、又、当然、判断されていないので、その摘示されていない控訴趣意書記載の控訴理由は全て本件上告理由としてここに引用するものである。そうして、このような主張を認めなかった原判決は、審理不尽・理由不備の違法があるのではないかとの疑念があり、且つ、これらにより被告人に対し執行猶予を認めなかったのは、刑の量定が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
第四点、(一)、(1)、刑の執行猶予に関しては、刑法第二五条以下に規定するところであるが、刑法が刑の執行猶予制度を設けた趣旨は、自由刑の執行に伴う悪弊を予防し、且つ、犯人の改悛により刑罰の目的を達せんとするにある。即ち、自由刑の執行が犯人を改善せしめる効力に乏しく、自暴自棄に陥らしめ、又、同囚の悪感化を蒙るに至らしめ、益々犯人を悪化せしめる事が少なくないので、法定の要件に該当する犯人について、その情状により、又、再犯のおそれ無しと認めた時は相当の期間、刑の執行を猶予し、該判決の感銘力により、自力更生せしめて刑罰の目的を達成せんとするにある。再言すれば、それは広報刑主義的な考え、即ち、罪を犯した者に対して必ず、それに相応した刑が科せられ、且つ、それが執行されなければならないと言う考え方を修正し、刑政に於る謙抑主義と実際的感覚とを裏付けした人道主義的・教育刑主義的な刑事政策的意義を多分に有するものである。
(2)、而して、刑の執行猶予制度は制定後、更に、刑法学界に於る牧野博士、宮本博士(刑法学粹・刑法大綱に於る調和の刑法観・愛の刑法観・刑罰の感銘力)、正木博士、木村博士らによる教育刑思想の普及並びに、その実践としての具体的裁判に於て、次第に罪質、範囲、期間等について寛容の方向へ改正、拡大されてきた事は言うまでもない。そして、かかる傾向は特に戦後の日本国憲法に於る個人の人件尊重・平和的人道主義的精神に基づき処罰的法規の立法面のみならず、実際の裁判に於る法規の解釈・適用面に於ても顕著であったのみならず、更に刑の執行猶予よりも、より寛大な刑の宣告猶予制度が刑法改正草案の中に規定されるに至っているのである。そうして、租税犯の処罰に於ても殆ど財産刑を科するにとどまり、自由刑を科する(個人、又は法人の代表者等)事はなかった。仮に自由刑が科されたとしても、殆どにつき執行猶予が宣告されていた。
(3)、然るに、昭和五五年三月一〇日東京地裁に於て租税犯につき、三〇年来、初めて該事件の被告人に対し実刑が科され、上告審に於てもこれを支持された。これは納税申告制度との関係に於て、刑罰の目的を考え一般予防、特別予防を考慮したものと言われている。そして、これを契機として、次第に租税犯につき個人(自然人)に対し実刑を科し、又、これにつき執行猶予を宣告しない裁判例が少なくない(但し懲役刑につき執行猶予を言渡した裁判例も少なくない)傾向になったのであるが、租税犯の本質については既に述べたところであり、再論しないが、前記のような判例や学説の見解は『国家の財政需要が、社会福祉国家への進展と共に益々増大し、そのために、国民の租税負担が加重されるにつれて、ようやく租税法に対する憲法の下に於る国民の主導者的意識が自覚されるようになった。そこへ、わが国は国家経済が高度成長期から低成長期へと移行し、そのために、国民の収入に比例しない急激な租税負担に堪えねばならなくなった。その結果、「正直者が馬鹿を見るような事があってはならない」という意識が租税捕脱犯に対して厳重に処罰を求めるという声になって表れたので、いわゆる国庫説から刑法による処罰に於る責任主義に基づき厳重なる処罰を為す』というようであるが、これは所詮、増税・増徴の実を挙げんとする便宜的政策的考慮に基づく見解であると思われる。行政犯(いわゆる法定犯)たる租税犯が、刑法犯(いわゆる自然犯)に移行するというような見解は本質論的には疑問があるのである(美濃部・行政刑法概論三-五頁、同・経済刑の基礎理論八頁以下等、その他参照)。
(4)、然し、仮に理外の理という意味に於て、止むを得ない必要不可欠の国家的・社会的・国際的な諸情勢の下に於て、前記のとおり租税犯に対し厳罰若しくは重罰(自由刑を科し、且つ、執行猶予を宣告しない)を科す事が許されるとしても、それは、いわゆるケース・バイ・ケースであって前叙のとおりの本件の如き事情の下にあっては、被告人に懲役刑を科し、且つ、執行猶予を認めないと言うが如き極めて不妥当な見解であると言わねばならないのである。
蓋し、論者の如く、行政犯たる租税犯が自然犯たる刑法犯化したとしても、租税犯と類似性を有する刑法犯の詐欺犯等に於て、相当罪状の重い犯人に対して懲役刑が科された場合に於ても、執行猶予を受け得る適格者に対しては相当多数の執行猶予の判決が宣告されているのは公知の事実であるのに、自然犯化、刑法犯化されたとする本件租税犯の事案の如きものに対し、懲役刑まで科し、なお且つ、執行猶予を言い渡さないのは量刑が著しく不当で、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
又、本件の如き昭和五九年度乃至昭和六一年度頃以降(一審・原審の各判決時を含む)に於て、増税及び徴税が厳しさを増し、超一流の大企業や不動産企業等、特殊の事業は別として、それら以外の中小企業や一般国民大衆、即ち、大多数の国民は重税(法人税のみならず、相続税等、その他一切の税を含む)に堪えかねており、節税対策に狂奔・困却している事は公知の事実である(例えば、地価の暴騰のため単なる住宅用として長年に亘り使用していた土地を相続税納入のため処分し、家族が離散しなければならない羽目に陥っている)。又、国民の血税が如何に無駄使いされているのかを一般国民大衆は知悉しており、真面目に働く意欲を失い重税や血税の無駄使い等について怨嗟の声が満ち溢れている事も公知の事実である(例えば、無意味な外国援助資金や不必要なまでに広大・華麗な官公庁の建物資金等その他)。このような一般大衆の国民的感情もある事を重視し、いわゆる「愛の刑罰」を科すべきである。さもなくば、日本国家の前途は憂慮に堪えないものがあると思料されるのである。
(5)、ところで被告人は、刑法第二五条等にいわゆる執行猶予を受けうる適格者である。法は、執行猶予を宣告しうる情状の基準について、具体的規定を設けておらず、専ら具体的事件に於る裁判官の裁量に委ねているが、これは裁判官の恣意を許すものではない事は勿論であり、その一般的基準又は考慮すべき事項について、判例・学説は、種々例示しており(例えば、「犯人の年齢・性格・経歴・環境・犯罪の種類・その他諸般の事情を考慮し」とか、刑訴法二四八条の起訴猶予の場合の事情等=刑法改正準備草案七八条・改正刑法草案四八条等に記載)、単に原判決が挙示する事項のみではない。被告人個人の年齢、健康状態、犯行当時の国家的・社会的・国際的な環境的その他諸状況等、犯罪に関連する一切の事情(適用法規の不備・欠缺、立法の怠慢、行政の過誤・欠陥等を含む=裁判所は国家機関であり、且つ、原則的には、いわゆる三権分立であるけれども、憲法に基づく違憲立法審査権等があるほか前記のような欠缺不備等について、裁判所は個々具体的事件に於て、正当な法の精神・理念に基づき真の法を発見して、その解釈・適用に基づく判決・決定等を通じてこれらの不備欠缺等を補い、=裁判官の立法作用=以て個々の国民の権益を護るべき使命を有するから)を斟酌しなければならないのである。
(二)、(1)、然るに、一審判決や原判決によって明らかなとおり、被告人は昭和二年三月一五日生まれで本年六四歳であり、本件犯罪が行われた当時、及び一審・二審当時、既に一般的には定年とされている老齢期に達している者である。且つ、社会的(業界)、国家的(外国との貿易)、国際的(台湾・韓国・タイ国との合併事業)に活動・貢献した者であり、種々表彰を受けたり感謝状を貰ったり、本件発覚前までは、「藍綬褒章」を受ける候補に上がっていたのであるほか、身体的に欠陥(いわゆる、びっこ)や、その他病気を持つ身であるから、このような被告人に対し執行猶予が認められず、実刑に服する事になれば、それは、残虐な刑罰を科した事になり、憲法第三六条いわゆる残虐な刑罰に該当するのではないかとの疑念がある。
蓋し、同条にいわゆる残虐な刑罰とは、単に刑の執行の手段・方法の残虐性のみを意味するもののみでなく、不必要な精神的・肉体的苦痛を内容とする人道上、残酷と認められる刑罰を意味すると解されている。そうして、量刑が被告人の側から見ても過重なものであっても、直に、残虐な刑罰と呼ぶ事ができないと言う見解がある。
しかし、罪と罰との著しき不均衡・量刑が甚だしく不当でこれを破棄しなければ著しく正義に反する程のものは、憲法第三六条に、いわゆる残虐な刑罰に該当するのではないかとの疑念がある。
(2)、なお、既述のとおり、控訴趣意書は、本件と類似性を有する最近の第三者に関する他の三件の判例を例示して、本件よりも重いと思料される事案に於ても、何れも懲役刑につき執行猶予が宣告されているので、本件についても執行猶予の判決が言渡されるべき旨を主張しているが、原判決は、この点について何ら触れていない。
(3)、しかし、右三件の他にも租税犯に関し本件と同じ項類似の事件につき、懲役刑につき執行猶予が宣告されたものが少なくないのである。その一例を挙げれば、東京高裁昭和六三年七月一八日判決(昭和六一年(ウ)第六一〇号所得税法等違反被告控訴事件)は、第一審裁判所が実刑に処した原判決を破棄し、懲役刑につき執行猶予を宣告している(懲役三年及び罰金三〇〇万円、五年間懲役刑の執行猶予)のである。
(4)、よって、原判決は、この点に於て既述のとおり、原判決がその他の控訴趣意書記載の控訴理由につき、これを摘示せず、従って当然、判断しなかった点と相俟って、審理不尽理由不備の違法があるのではないかとの疑念があるほか、又、憲法第一四条(他の類似の事件と比較して、被告人に対し執行猶予を認めなかったのは法の下に於る平等に反する)若しくは憲法第三七条に違反しているのではないかとの疑念がある。殊に憲法第三七条は、「全ての刑事事件に於ては、被告人は公平な裁判の裁判を受ける権利を有する」旨を規定しているところ、公平な裁判とは、偏頗や不公平のおそれのない組織と構成を持った裁判所による裁判を意味し、個々の事件につき、その内容実質が具体的に公正妥当な裁判を指称するものではないと解されている。
しかし、憲法第三七条に関する右見解のうち「個々の事件につき、その内容実質が具体的に公正妥当な裁判を指称するものではない」との部分の見解については大いなる疑問がある。結論から言えば、この部分こそ憲法第三七条の根本的目的であって、この目的を達成するために「不公平のおそれのない組織と構成を持った裁判所」が必要なのであるから、憲法第三七条の趣旨の中には当然、個々の事件につき、その内容・実質が具体的に公正妥当な裁判を受ける権利を有する旨が含まれていると解すべきである。又、裁判とは、個々の事件についての裁判であり、裁判一般というものは存在しない。そして個々の事件の裁判の内容・実質が具体的に公正妥当であるべき事は裁判の根本的要請であり、又、それは自明の事理である。
それ故に、憲法は文言上、これを具体的に記載しなかったかも知れないが、法文の「公平な裁判所の裁判」とは、「公平な裁判所の公平な裁判である」と解さなければならないのである(日本国憲法はその裁定の経緯により、その組織的・体系的な面に於て理論的緻密性を欠くほか、個々の条文についても理論的緻密性を欠いているから、個々の条文の文言、形式に捉われず、その精神に基づいて意味内容を解釈すべきものとされる)。
従って、原判決が前記のとおり、最近の裁判例として他の三つの類似の判決(執行猶予)を例示・説明して、本件についても執行猶予の判決がなされるべき旨主張したのに拘らず、これらの点についての審理・判断をせず、以て、本件につき執行猶予を認めなかった原判決は審理不尽・理由不備の違法の疑い、又は憲法第一四条若しくは憲法第三七条に違反しているのではないかとの疑念がある。
(三)、よって、以上のような事情の下に於て、原判決が被告人に対し、執行猶予を認めなかったのは量刑甚がだしく不当であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められるのである。
第五点、以上、第一点乃至第四点に於てそれぞれ述べたところは、煩を避けて一々記載していない部分があるとしても、何れもそれぞれ原判決の量刑が甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるものとして主張しているものであるが、仮に右のそれぞれがそうでないとしても、第一点乃至第四点に記載の各事由を全体として総合的に見て、原判決は刑の量定が甚だしく不当であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められるから、原判決は破棄さるべきであると主張するものである。
以上